和菓子処 大手門にて今までお買い上げ頂いた商品に入れておりましたしおり、大田庄の伝説・民話のバックナンバーを掲載致しております。
数々の郷土話から世羅(大田庄)の興味をお持ち頂ければ幸いです。
なお、市町村合併に伴い、現在の地名が一部変更されておりますが、 本サイトでは、旧住所を発刊当時のまま掲載しております。
資料提供 世羅町教育委員会
今高野山大師堂の御本尊は、弘法大師のお姿を描いた御絵像です。
昔、この御絵像の表装替えをするため京都の表具師のところへ出しました。
暫くたってその表具師から書状が今高野山へとどきました。
「お大師様の表装が出来上がりました。御住職様直々に、受け取りに来てください。」
と書かれています。
今高野山の御住職は「何か訳がありそうだ。」と思い、総代さんや人夫を伴い京都の表具屋へ参りました。
「今高野山のお大師様の御絵像を預かった時、もう一つ同じような御大師様の御絵像をよそからも預かったので、同じような表装をしましたところ、出来上がってから見ると、どちらが今高野山のやら手前では見分けがつかなくなりました。申し訳ありませんが、どちらが今高野山の御大師様かお見分けくださった上、お持ち帰りください。」
ということでありました。
御住職さんはじめ、今高野山方の総代さん達は、いつも拝んでいた御大師様だから一目で判ると思っていましたが、出された二枚の絵を見てびっくりしました。
御絵像も同じなら表装も同じ、どこといって違ったところは一箇所もありません。
「ううん?」と言ったきり、次の言葉も出ませんでした。仕方がないので、一心に拝んでいますと、今高野山の御大師様がまばたいて合図をしてくださったので、これだと判って持ち帰ったと言うことです。
それから、この御絵像を「まばたき大師」とも呼ぶようになりましたそうな。
信者の方が、お願い事をして拝んでいる時、まばたいてくだされば願い事が叶えていただけるというので、一層有名になりました。
この御絵像は、ある時大師が自分の姿を描いておこうと思い立たれ、絵絹を三枚重ねて描かれたところ、墨や絵の具が下まで染み通って同じ物が同時に三枚出来上がったので、上の絵は紀州の高野山に、下の絵は丸亀の善通寺に、中の絵を今高野山に納められたという伝説が、今高野山にあります。
「靖六の社」というのが旧大見村安田にある。
昔、岩見の国に朗靖六という武士がいた。
ある時、城主が付近の山で狩をしたところどこからか金色の美しい二匹の鹿が出てきた。
城主は大変この鹿を欲しがって、家来達に射ちとれと命じたのであった。
大勢の家来の中で、優れて鉄砲の上手な靖六は、猟犬と共に二匹の鹿を追いかけ、はるばる石見より山を越え、谷を渡り、ついに大見村上安田、室谷までやってきた。
山頂に登って見れば、二匹の鹿は遠く青近の山に逃げていた。
靖六は、あまりの長途に疲れ果て、石に腰をおろして休んでいると、かたわらでけたたましい愛犬の鳴き声がするではないか。
靖六が立ち上がってみると、すこし下手の岩の下に大きな蛇がとぐろを巻いていた。
両眼は朱のごとく輝き、今にも飛びかかりそうなので、犬は主人大事と吠えながら蛇に向かって行ったのである。
やがて犬と蛇は戦いをはじめたが、ややもすると犬が負けそうなので、これを見た靖六は、可愛い犬が殺されては大変だと、銃をかまえて蛇に狙いを定めた。
弾丸は見事に命中した。
しかし、犬と蛇とが組み合っていたため弾丸は蛇をとおして不幸にも犬にも命中したのである。
犬は蛇よりも弱っていて、ついに蛇に巻かれたまま悲鳴を上げて死んだ。ここの岩を今に犬岩といっているそうである。
靖六は、犬に死なれては鹿を狩ることが出来ない。
鹿をとらなければ主君にあわす顔がないと思ったのか、銃を胸にあてて自殺し果て、のち、里人はそこにあった高さ三メートルばかりの大岩に穴をうがち、靖六や忠犬を祭ってやった。
靖六が自殺した日が二月十五日であったから、その後の旧暦二月十五日には地方人は休んでお祭りを行ない、その祭日には近隣の猟師はもちろんのこと、遠方の者も何か獲物を携えて参拝したということである。
明治になってから十月十五日にはお祭りをしたという。
現在も、四年に一度、大神楽を奉納しお祭りは若者達によって継承されている。
青近の山を越さんとした雄鹿のいた山をその後は雄鹿山といい、雌鹿のいた山を雌鹿山というようになったと伝えられている。
昔、川尻に助友という力持ちがいました。
ある時、大雨で濁流の渦巻いている川の中へ戸板を持って飛び込み、戸板で大水を押しながら、川上へ向かって歩いたということです。
助友が力持ちと言う評判が遠くまで伝わったらしく、九州から力自慢の鬼熊と名乗る大男が力比べにやってきましたが、あいにく助友は留守で、応対に出た助友の妹が石臼の上に湯呑をのせて片手で持ち、もう一つの手でやかんを持って来て鬼熊の前へさしだし
「お茶うけに漬物を出してきます。」と言って、庭先にはえている手ごろな竹に手をかけ軽々と引き抜き、無造作に枝をむしり捨て、指先でつまんでしごくと竹はペチペチと音をたててつぶれました。
それをタスキにして漬物小屋へ入って行きました。
それを見ていた鬼熊は、妹でさえあれほどの力持ちだ、兄の助友はどんな大力かわからない。とてもかなわないと思って逃げ帰ったそうです。
上下のあるお寺で、宇津戸の鋳物屋に梵鐘を作ってもらい大勢で受取に行きました。
その頃は車もない時代でしたから、梵鐘を大縄でかがり、それに長い棒を通して数人づつ交代で担ぐのでとても時間がかかります。
川尻まで帰ったら日が暮れたので川尻の宿に泊まっていく事になりました。
梵鐘は宿の軒下に置きましたが、そこを通りかかった助友がいたずら気をおこして、梵鐘を片手に宿屋の側の大きな松の木に登って、高いところへ吊しておきました。
翌朝、上下の人達が宿を出発しようとした時、梵鐘が見当たらず大騒ぎとなり、やっと松の木にぶら下がっているのを見つけましたが下ろすことができません。
宿の人から助友に頼んで下ろしてもらったということです。
(その宿のあたりを今でも下り松といっています)
そんな話が、当時天領であった上下の代官の耳に入り、「お前の力持ちぶりを見せてくれ」と助友を代官所に呼び寄せ、材木を手玉にとったり、大きな石を差し上げたりして見せる助友の力業を誉め讃え、たくさんのご馳走を振舞ったそうです。
昭和の時代になってから助友の話を後の世まで伝えようと墓を建てました。
川尻の助友が住んでいた所は地名も助友といって残っているし、一人で背負ってきて架けたという石橋も残っています。
その他、助友の一荷倉といって倉一棟を建てるだけの材木を一荷に背負って運んだという話や、もちつきを手伝って、一臼分のおもちを一度に平らげたというような話しも語り継がれています。
江戸時代末期、今の甲山町砂田(東地区)に才色兼備のたいそう評判のよい「おつち」という女性がおっての~。
当時の砂田は、牛市で全国的に有名であった杭(御調郡久井町)の市や、県の東北部地方から尾道への米の出荷等で往来のはげしかった稲草街道(総領町~尾道市)の要所として栄え、旅篭や茶屋も数軒あってとても繁盛していたそうな。
「おつち」はそこで、旅人や出張してくる藩の役人の接待役をつとめておったのじゃが、天性の美貌と才媛に加え、客のもてなしも大変よく、今でいうトップレディとして、うわさがうわさを呼び、彼女の評判ぶりはそれはそれは大したもので、歌にまでして広く愛唱されたんじゃ。
ここは照れ 照れ 砂田はくもれ
砂田おつちが日に焼ける
かさを わすれた 砂田の茶屋に
空がくもれば 思い出す
こうした歌は、田植え歌、木挽歌や祝言の歌として盛んに歌われ、砂田地方の自慢の一つであった。
現在も「おつちの墓」は東地区中心部に奉られ、地元の人々から大切にされております。
昔、青近村(現 世羅町大字別迫)に住んでいた長者が、家具に凝り近ごろ金屏風を手に入れましたが、無地の金屏風だったので、円満寺の雪舟和尚さんに何か描いてもらいたいと頼んだそうです。
雪舟和尚さんは、長者の平素の行いを快く思っていなかったので、お断りになったのですがあまりにもしつこく頼まれるので、断りきれなくなり、墨絵を描くことにしました。
雪舟和尚さんは、馬のクツに墨をたっぷりとつけて、金屏風の上にペタペタと押しました。これを見ていた長者は、びっくり仰天して「もしもし!和尚さん、そんないたずらはやめてください!!大事な金屏風が台無しになったではありませんか。一体これをどうしてくださるのですか?!」と恐ろしい見幕で詰め寄りました。
和尚さんは平気な顔で「お気に入らぬようですな、では止めましょう。」と言って「シッシッ」と追うように手を振られますと、これはどうしたことでしょう。馬のクツ跡と思ったのは、見事なカニの絵でした。その絵のカニがゴソゴソと動き出し、金屏風の上から畳の上に這い出して、本堂の廊下をつたって円満寺の前の谷川へ姿を隠しました。
それから、円満寺付近の谷川には、今までこの辺りにいたカニとは違ったカニがいるようになりました。
地方の人は、このカニを雪舟カニといって、捕らえぬようにしたということです。
寿永の昔のこと、源平屋島の戦いに破れた平家方の武将、平教溢は主従七人、小船に乗って播磨国室津の港に着いたものの、源氏の目を避けて昼は山に隠れて眠り、夜歩いて備後国の芦田川をさかのぼって、大田庄めざして歩き続けているうちに小さな集落に出ました。
こんな山奥までは源氏の追手の兵は来ることはあるまいと、隠しもっていた平家の赤旗を立てて、前途を占ったそうです。この集落を旗建原と名付けたのが由来で後に八田原と言うようになったということです。
そこからまた歩いて行くと、人家もない平地に出ました。ここで今迄着ていた着物を着替えたことから、この地を衣裳原と名付け、後に井庄原と書くようになったということです。平教溢一行は伊尾の山にたてこもりました。
小谷に竜賀山法泉寺という真言宗の寺がありました。住職の観密阿闍梨が訪れ、寺の付近に館を建ててここに一行を迎えて住まわせ、この館は室津から来た人の館という意味で、室来の館と名付けたそうです。これが後に何時しか室屋というようになりました。教溢らはその付近の荒れ地を開墾して農業に打ち込み生活をするようになり、守護神として大霊権現を奉り、男女の神像を彫刻してお宮の御神体としました。
建久五年、五十四歳にして教溢は法泉寺の境内に岩窟をつくって、定に入ったといわれます。定に入るとは、生きながらにして身体を土のなかに埋めてもらい死ぬことです。教溢やその一族の子孫は代々栄えて今も続いているということです。
(八田原や川尻の久恵にも、小谷の平氏一族が分かれて来て住んだということです。)
東上原の久代谷に、それはたいそうな長者がいて、沢山の田畑を持ち、田植といえば谷中の村人を集めて、かねや太鼓で賑やかに植えたということです。
ところが、この長者は欲張りでその上、情知らずの憎まれ者でした。
ある年、田植がすんだ翌日、長者は馬に乗って甲山の町へ買い物に出かけての帰り道、宇根造という山道にさしかかった時はもうすっかり日も暮れて雨さえ降りだしてきました。
峠を登りきった時、前方の闇の中に、きれいな女が傘もかぶらずに立っているではないですか。
長者はたいそうに驚きました。その女は
「もし、もし、長者さん、山道に迷って難儀しております。馬に乗せてはいただけませんか」
と頼みました。長者は心の中で
「ははあ、宇根造きつねめ、化けたな。このオレさまが騙されると思っとるのか、馬鹿たれめ、うんとこらしめてやるぞ」
とつぶやくと、そんなことはそぶりにも出さず
「それはお困りでしょう。さあ、さあ馬に乗りなされ」
と手伝って馬に乗せてやり、
「落ちてはいけんから」
と上手に騙し、馬のクラに綱で女をしっかり縛りつけ、急いで我が家に連れ帰りました。
家に着くなり長者は
「今帰ったぞ!さあ急いで大釜へ湯を沸かしてくれ、お客さんをお連れしたからな」
と大声で家の者に言いつけ、湯が煮えると待ってたとばかりに、馬のクラに縛り付けたままの女を、煮えたぎった釜の中に入れようとしました。
女は「許してください。許してください。」
と泣きながら頼みますが、長者は
「ならぬ、ならぬ、この釜で煮てやるから、きつねの正体を現せ!」
「後生ですから許してください!」
しびれを切らした長者は
「ならぬ、こうしてくれるわ」
と煮えたぎる湯の中に女を馬のクラもろともにジャブーンと入れこんだその時、「コーン」と一声きつねの鳴き声が聞こえました。
長者は「馬鹿きつねめ、今度はとうとうわしの勝ちぞ、往生したな」
と満足しながらクラを引き上げてみると、いつどこで、どう変わったのか、クラに縛りつけられていたのは、きつねの死体でもなく、女でもなく、大きな木の根っこでした。
「おおっ」と驚きの声をあげた長者の耳に
「情け知らずの長者め、見ておれ。お前の家は三年経たないうちに、野屋敷にしてやるぞ!」
と言う、きつねの声が聞こえました。
翌朝、起き出した長者が自分の田を見ると、田植をしたばかりの苗が全部まっさかさまになっているではありませんか。
驚いた長者は大勢の村人を集めて早速、植え替えさせましたが、翌朝はまた苗が逆立ちしています。長者ときつねの根競べでした。そうしているうちに、苗は全部枯れてしまいその年は、一粒の米もとれませんでした。
翌年も、同じことでした。そして三年目には、あれ程物持ちの長者の家もすっかり野屋敷になってしまったということです。
昔、宇津戸に領家と地頭という二人の役人がいました。
二人は領主から宇津戸を二つに分けて治めるように命令を受けていたのですが、おたがいに、自分の勢力を強めようとして、境界をせばり合い、けんかの絶え間がありませんでした。
領主は
「こんなことでは、宇津戸の住民が困るだろう」
と思って、二人にあてて
「お前達が預かった領地の地図を書いて差し出せ、その地図が領主の所にある地図と同じであればよろしいが、もしちがっているようであれば、預かった領地を本気で治めていないことになるから、役を取り上げて追放する。」
という手紙を送りました。
領主からの手紙を受け取った領家と地頭は、びっくりぎょうてん。
あわてて預かった時の境界を見出そうとしましたが、祖先代々預かって以来、お互いにせばったり、せばられたりしているので、とても正しい境界を見つけることはできません。
もうケンカどころではありません。
二人は、いつの間にやら寄り合って
「どうしたらよかろうか」
と相談するようになりました。
どんなにしても良い方法は考え出されません。
とうとう、この上は、神様におすがりする以外の方法は無いということになり、村の神主様に祈とうをしてもらうことになりました。
神主様は、まず、黒木の田の中にある岩の周囲に青竹を立てて、しめ縄を張りめぐらし、岩の上に神様をお迎えして、一心に祈とうしますと、突然、大きな音をたてて岩が真っ二つに割れました。
神主様がいいました。
「神様のお告げです。岩の割れ目通りに両方へのばしたすじが境界線であるぞよ。」
今度は、
「箱の土たこ橋」のたもとに神だなをつくり、鏡もちを供えて祈とうしますと、鏡もちが二頭の白い鹿になって、前になり後になりしながら鬼木の山へ駆け登りました。
神主様が言いました。
「神様のお告げです。二頭の白い鹿が通った道が境界であるぞよ。」
これで境界がわかりました。
それによって領家と地頭とも地図を書いて出したところ、領主の所にあったのと寸分ちがわなかったので、宇津戸を追放されずにすみました。
二人の役人はその後は境界争いなどせず、仲良くして自分の預かった領分をよく治めました。
そして神社を建てて神様を崇いましたので、宇津戸には今でも両家八幡神社と地頭八幡神社と二つの八幡様があります。
江戸時代(元文のころ)宇賀村に庄兵衛・勘兵衛という兄弟が母と一緒に住んでいました。
元来母は健康がすぐれず病気がちであったから、兄弟は良いという薬は無理をして買って飲ませ、母が欲しがる食物は着物を質に入れても買い求めて母にすすめ、行きたいという所へは兄弟で背負って行くほどの孝行ぶりでした。
ある時、宇津戸の虚空蔵様は霊験があらたかであるという話を聞いて、五里(約20km)の道を兄弟が交替で背負っておまいりしたところ、おかげで母の病気が大変よくなったので、村中の評判となり、やがて殿様の耳にも入って、孝行者として兄弟が表彰されたことが古書に記されています。
宇根山大池のほとりからすぐ北にある低い山頂に虚空蔵ぼさつをまつった所があります。
昔は立派なお堂もあって多数の信者がおまいりしていたようです。
宇津戸の坂上明登様のお宅には、祭日におまいりする人にお茶を接待していたのです。
そのお湯をわかす大かまが保存されているそうです。
現在ではお堂もなく、おまいりする人もめったにないようですが、大きな自然石に刀やヤリを持った不動様のような仏像二体がきざまれていますが、さびしそうに下界を見下ろしておられます。
弘仁十三年、弘法大師が諸国を途中お廻りになる途中、行円庵(世羅町神崎、遍照寺)にお泊りになった時のことです。
その夜、どこからともなく観音経の文句が聞こえてくるので縁側に出てご覧になると、向こうの山の山頂から後光が射して、そこからお経の声が聞こえてくるではありませんか。
弘法大師は
「きっと、み仏様の尊いお告げにちがいない」
とお考えになり、翌朝その山に登りかけられますと、岩の上に高野明神がお立ちになっていて、
「この地は仏教に適した神聖な地である。もし、あなたがお寺を建てられるなら、私は守護神となります」
と言って姿を消されました
弘法大師は有難いことだと思われながら山頂に登ってみられると、そこには、大きな岩の上に、一寸八分(約5.5cm)の黄金の観音様がありました。
弘法大師は、伏し拝まれ、捧げ持って山を降りられると、行円庵主に頼んで寺を建立せられ、また自らせんだんの木を切って十一面観音像を彫りあげると、その御頭の中に黄金の観音様を納められ、この寺の御本尊にされました。
これが今高野山のはじまりと伝えられ、十一面観音像は国の重要文化財にも指定されています。
昔、弘法大師がある時、宇根山を歩いておられ、腹がペコペコになっていました。
あたりを見回しますと、おさない子どもたちがちいさい体をせいいっぱい伸ばして、高い栗の木から栗をとっていました。
そこで弘法大師は、
「栗をとって、わたしにも一つわけてくれませんか」
とその子どもたちにたのみました。
子どもたちは、弘法大師にたくさんの栗を取ってあげました。
弘法大師は、自分が食べたいのにがまんしてくれたのをかわいく思い、もっと楽に栗がとれるようにと、宇根山の栗を全部低くしました。
それから宇根山の栗の木は背が低くなったと言われています。
むかし、むかし今より、ずっと前のこと。
今の西神崎の山手の方に御堂があった。その中に観音様がまつられていた。
ところがこの観音様、位の高い武士が大きらいで、武士が馬に乗って通るたびに落馬させるのだった。
「武士たちは、農民たちよりずいぶんぜいたくをしている。農民たちは一日一日の生活が大変なのに武士は、農民のことをなんだと思っているんだ。」
という観音様の気持ちが落馬させたのだった。
観音様をおろす前に新しい大御堂を作った。
そのころは機械がなかったので、小さな御堂を作るにも二ヶ月ぐらいはかかった。
「今日は特別に暑いのー。」
「そうじゃのー。こんなんだったら、暑くてなかなか御堂が作れんのー。」
「しかし、これで観音様のおいかりがしずまればええがのう。」
と村人たちは汗を流しながら御堂作りにはげんだ。
そして、村の男たちで観音様を道下へおろした。
もう、重いのなんの。何回休んだことか…。半日ぐらいかかってやっとおろせた。
観音様を高い所から低い所へおろしてもまだ、武士は、馬から落ちてしまう。
観音様はおいかりになるばかりであった。
「お前達のような武士は、そのよういいばる必要はない。馬から落ちてしまえ。」
村人たちは困ってしまった。
「はて、何がいけんのじゃろう。」
「何がお気に入りにならんのじゃろう。」
「向きを変えたら落ちなくなるんじゃないんかのう。」
「そうじゃのう。」
ということで向きを変えることになった。
「もうこれ以上落馬させないでください。お願いいたします。
観音様、気をおしずめくだされ。なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。
どうかお願いいたします。」
村の人たちは、一生懸命祈って観音様の気をしずめました。
それからというもの大御堂の前を通る者たちは、馬から落ちないようになり、武士たちも安心して通るようになったそうだ。
ここに、遊びにくる子どもたちは、けがを全くせず、楽しく遊んだという言い伝えがある。
ここの観音様は子ども好きだそうな。
やっとのことで新しい大御堂が出来たそうな。
みんな大喜びだった。
武士は落馬しなくなり、子どもたちもかけよって、おがむ人や手をたたいて喜ぶ人もいた。
とんと昔のことだ。
今の東神崎のへんじょう寺というお寺に「じょうおん」というおぼう様がおられた。
ある日そこへ弘法大師がたずねられ、
「私は、長旅でつかれてしまいました。ふとんも何にもいりません。一晩とめてもらえないでしょうか。」
と言われた。じょうおん様は悪い顔一つなく
「ええ、どうぞ。うちは、なあんもないあばら屋ですが、よろしければおとまりください。」
とあたたかくむかえて下さった。
夜もふけたころ、弘法大師様がねておられると、夢の中にパット出てきたものがあった。
東の城山の頂上が金色にピカリと明るく光り、美しいおきょうの声や不思議な音が聞こえてきた。
「きれいな声じゃ、なんとみごとなおきょうなんだ。」
弘法大師様は、夢を見ながらそう思われた。
朝、お目ざめになられた弘法大師様は、きのうのゆめのことが気になってしかたありません。
「あの山には、何かあるのではないか。」
と思われさっそく城山へ向かわれた。
「たしかにこの山だ。」
急いでゆめの気おくをたどりながら登られた。そのころの城山は道などなく、つえをつきつき草木をかきわけながらせっせと登られた。
「おお、もう少しじゃ。早く行こう。」
そして、岩の間に小さな仏様がおられるのを見つけられた。
「おお、観音様ではないか。」
弘法大師様は、何かのおつげがあったかのように自ら十一面観音像を作られた。
そのとき、その頭の中に、岩の間に見つけられた小さな金の仏様をつくられた。
今でもへんじょう寺の石段には、弘法大師様の足あとだといわれる足型がある。
ある日、一人の右足の悪い若者が足あとを見にきた。
「これがあの弘法大師の足あとだ。おれもこの人のように自由に歩きたい。」
と言いながら、弘法大師様の足あとをさすった。
こうして若者は、足が良くなった。
それからというもの、弘法大師様の足あとを拝むと足の病気が良くなるといううわさが、村々に広まった。
これからするお話は、それはもううんと昔の話でございます。
現在の甲山町宇津戸に、雨包みヶ原という広さで言うと二町歩ばかりの草田があり、
中央どころには横方三間、高さ一間ばかりの大岩がございます。
その昔、この「雨包みヶ原の大岩に近づくとうなり声が起こり、怪しい物が現れる…」
と大変恐れられ、だあ~れも近づく者がいなかったそうでございます。
ある時、村の人が、雨包みヶ原の草田に色々な種類の馬を放したところ、
さめ馬(白色)とあし毛(白色混毛)の馬は突然「ヒヒ~ン」と悲しく鳴いたかと思うや、
体の自由を失って息絶えたそうでございます。
村人たちは「これは物のたたりに違いない…恐ろしいことだ。」と恐れそれから後、
村ではこの二種の毛色の馬は一切、飼わなくなったのだそうでございます。
また、干ばつの時は、神官・僧侶を迎えて、大岩の上で雨祈祷を行い、
村人たちはその回りに集って、雨乞いの儀式に参加する習慣になっているそうでございます。
昔、赤屋(甲山町)の高山城主は、もう年をとったので若殿に結婚させて、城主を譲ろうと思っていました。
若殿が家来を連れて青近(甲山町)の実竹城主の館へと結納を納めに行かれた留守の時のことです。
突然、尼子勢が赤屋の畠藤山に集まり旗を立てて気勢をあげ、一挙に高山城主の館へ攻め入ってきたのです。
高山城主は、多勢に無勢で戦ったところが勝ち目の無いことを悟り、死を覚悟され婦人、子どもらを逃がし、
少数の家来を供に館から落ちて行かれました。
城主は死場所を平素から信仰していた矢野(上下町)の安福寺に決めて山越に別追へと向かわれました。
館を出るとき可愛がっていたネコを抱いて出かけ山道で放してやりました。
後を追って来た尼子勢はそのネコを見つけると高山城主が飼っていたということでネコの首を切りました。
ここを今でも「ネコの首」と呼んでいます。
山道には人の背丈ほどに雑草が被い繁り、高山勢の家来達は刀をとりなぎ払ったり、刈ったりして進みました。
後に続く尼子の兵たちがこれを見て「高山勢は草ァ~刈ったもんだ」と言ったので、この坂を「くさあ坂」と呼ぶようになりました。
高山城主は別追(甲山町)の郷に出た所で鎧を脱いで道ばたの田に捨てました。
その田を今でも「鎧田」と言っているそうです。
川で洗濯していた女の人に
「後を追ってくる尼子の兵士に、わし等が逃げって行った道を正直に教えてやってくれ」
と頼み、段原から柴峠を通って矢野の安福寺に到着しました。
高山城主は家来達に「みな無駄死にせず、逃げ延びて若殿と力を合わせ、きっと仇を討ってくれよ」
と頼み、家来達を逃がし、城主一人で本堂に入って仏前で静かに読経し、切腹しました。
後を追ってきた尼子勢は城主の首を取って勝ちどきを上げ意気揚々と青近方面に引き上げてきましたが、
若殿と実竹城主が力を合わせて、男鹿山と女鹿山に陣取り、計略を持って散々に討ち破り、見事父の仇を晴らしました。
若殿は実竹城の姫と結婚し高山城主を継ぎ矢野の安福寺で父の大供養を行い立派な墓を建てました。
今、県重要文化財になっている宝篋印塔がそれであると言われています。
世羅郡一帯には平安時代から「大田荘」が開け、
鎌倉時代には紀州高野山の有力な経済基盤をなす荘園となりました。
そのため、高野山は大田荘の経営と布教活動の拠点として、今高野山を開き、
き堂塔伽藍を整え一塔十二院を造営し、備後一の霊場と称されるようになりました。
甲山はその門前町として発展し、室町時代には今高野山城主上原氏の市場町として栄えました。
元和五年(1619)福島氏改易の時、浅野氏に引き渡された「備後国御知行帳」によると、
甲山町は全て町屋敷(宅地)のみで、その石高は、高山町(甲山町)「四十三石三升」と記載されています。
同帳によると、当時港町として賑わった竹原の下市町屋敷(四十二石九升五合)を凌ぎ、
山間部としては注目される町場でした。
市の立つ町場では、市を守護し商売繁昌をもたらす神として、必ず「胡神社」が祀られます。
今高野山下の町場に祀られた胡神社は、
文政年間の芸藩通誌の甲山絵地図によると参道入口を中心にして東西に上市・下市があり各1社づつ街道の路上中央に祀られており、当時の甲山商人の信仰の厚さを示しているようです。
その2に続く
慶長九年(1604)以降、尾道から甲山を経て石見に至る石州街道の整備が行われ、
この街道によって石州大森銀山の銀や、備北の鉄などが尾道港へ輸送されるようになると、
甲山には、正保元年(1644)藩営の御茶屋(本陣)が置かれ、
貞享元年(1684)に「石州運上銀通行之御入用」として御銀蔵が設けられました。
そのため、甲山は陰陽を結ぶ中継ぎの宿駅として一層賑わいを見せるようになりました。
更には、城下町広島への広島路や、年貢米・塩輸送の三原路、
また郡元である甲山から村々をつなぐ道も整備され、
近郷の商売、流通の中心となり、沢山の人で賑わいました。
現在は、八月二十日を中心に三日間「廿日胡祭り」(はつかえびす)と称して、
昼の、今高野山弘法大師御影供養・観音供養と、夜の胡神社・だんじり仁輪加狂言を祭りの中心として、
毎年賑やかに甲山の伝統行事として行われるようになりました。
江戸時代初頭にはひなびた祭礼形式であったものが、京都八坂神社の祇園山鉾の華やかな祭礼形式の影響を受け、
屋形のだんじり仁輪加狂言が一層賑やかなものとなり、甲山の特色ある伝統芸能として定着してきたと思われます。
現在は、町内に「だんじり保存会」が結成され、保存、継承活動が続けられています。
江戸末期のだんじりは、今より小柄で、車輪は松の丸太を切って鉄板を巻き、
舵取り装置もなく数名の囃し方を乗せて、辻々での方向転換は容易ではなかったと思われます。
明治時代初期には、二階建てが造られ、二階で囃し方は鉦(かね)・太鼓を鳴らし、
美しい芸子さんが鮮やかに三味線を弾いて、一階では吊り人形を飾り『だんじり』を引きながら町を練り歩き
「仁輪加狂言」を演じていました。
そして明治33年11月27日の世羅郡忠魂碑の建設披露時に
「余興には相撲、花火山車(だんじり)、手踊り、戯作(げさく)物園遊加わりて…」
と12月11日に、当時の広島日報で報じられており「山車」が「だんじり」であり、
「戯作物園遊」がおそらく今日の「仁輪加狂言」であろうと思われます。
大正7年に甲山の街にも電灯、電話が開通し、電線が各戸に引き込まれ、
二階建てでは運行に支障があり、一階のものに改造されました。
そして一時は、現存の三台(上組・中之町東町・新川町)と隣の世羅町大田町からも一台加わり、
四台で運行されていた時代がありました。
その後、各々老巧化、火事等の歴史を経て、上組は昭和28年に、中之町東町は昭和31年に再建されています。
新川町は昭和3年の御大典を記念し、その後平成4年に再々建され、
現在は長さ2.7m、幅2.1m、高さ3.3mで黒や朱の漆塗りの建具に飾り金具の付いた精巧な細工の木造で、
提灯や幕で飾り立て、きらびやかな山車です。
現在は、上組1台、中之町東町1台、新川町1台計3台が伝統を受け継いで運行されています。
むかしむかし、弘法大師というお坊さんが全国各地を旅していました。
そしてある村へ行きました。
この村には新山という山があって、お坊さんはそこへ登ってみようと思いました。
そこの山の“ひいる”は、人の足にくっつき、いつも村人を困らせていました。
弘法大師はこのことを知らずに、新山へ登って行きました。
すると、弘法大師の足に“ひいる”がくっつき血を吸おうとしました。
この“ひいる”は、ひつこく、なかなか離れませんでした。
そこで、弘法大師は足にくっついた“ひいる”をつまみ上げ
「これ“ひいる”よ、これからは人の足にくっついて血を吸ってはいけないよ」
とやさしく叱りました。
そして、弘法大師は、“ひいる”と村の人に別れを告げ、また去って行きました。
それからというもの、この山の“ひいる”は今まで自分のしたことを悔いあらためて、
もう二度と人間の血を吸わなくなったということです。
むかしむかし、ある村に若菜という娘がいた。若菜はいつも夜おそく家を出て、朝方になって帰ってくる。そのたびに、草履が濡れているのを若菜の父は不思議に思い、ある日そっと後からついて出かけた。
暗~い夜道を若菜はおそろしい早さで歩いて行く。若菜の父は、見失わないようについて行った。
若菜は池の前まで行くと、そこに草履を揃え池の中にゆっくりと入って行くではないか。とうとう、首の所まで水の中に入った所で手を合わせ、悲しげに沈んで行ったかと思うと、なんと若菜は見るも無惨、恐ろしい大蛇に姿を変えていた。
池は嵐のように渦を巻き、「田一さん、田一さん。」と大きな声で呼びながら泳いでいる。
夜明けが近づく頃、若菜は池から上がると、さっきまであれほど大暴れしていた、あの恐ろしい大蛇がまるで嘘のように、もとの美しい娘に戻っていた。
池の水もすっかり静まり、音もなく穏やかに波打っている。
(その2につづく)
※若菜峠(わかなとうげ)は、世羅町本郷から田打にぬける途中にある。
田一というのは、若菜の家に奉公していた若者だった。若菜と田一は、お互い愛し合うようになったが、身分の違いから無理矢理引き離されてしまった。田一は、若菜と引き離された悲しみから逃れるために、数日前この池に身を投げて死んだのだった。若菜は、その田一に会うために、三つの池に次々と入り、大蛇に化けて戯れるのだった。その姿は、あまりにも恐ろしく無惨であった。田一を思いこがれる気持ちが若菜を大蛇の姿に変えさせたのだった。
若菜の父は決心して娘を刺してしまった。若菜は悲鳴を上げその場にばたりと倒れてしまった。父はその亡骸を池に葬ったのだった。
それから数日後、その池を通りかかった村人が若菜の亡骸を見つけて、たいそう可愛そうに思い、池の傍に若菜の墓を建てたのだった。
それから後、この峠を通る人々はいつの間にかこの峠に若菜峠という名前をつけて今に語り伝えている。この池に身を投げて死んだ田一の名前をとり、この地域を「田打」と呼ぶようになったという。
※「田打(とうち)」世羅町大字田打
むかしむかし、そのまた昔のことじゃ。
大田荘の山奥の国久という村でのお話じゃよ。その村には国久道という道があって、夜になると“せいたかぎつね”という化けもんがでるそうじゃ。
その人は立ち止まって、ニコッと笑ったかと思うと、とたんにきつねに化けたそうじゃ。そして、見る見るうちに約5メートル以上の大きさになって…。
あるとき杉佐衛門が道を歩いていたら、美しい女の人がやってきて、手招きをしながら山奥の方へと連れて行ったそうじゃ。杉佐衛門は、足が勝手に動いて女の人について行ってしもうたんじゃ。
山の奥深くまで行くと、美しい女の人は、突然きつねに姿を変え、杉佐衛門に襲いかかったんじゃ。
杉佐衛門はびっくりして、気絶して、次の日になっても村に帰って来んじゃった。
(その2につづく)
村人たちは、二度とこのようなことが起きないようにと、“せいたかぎつね”を祀り、観音様を建て、お風呂も作ったんじゃ。そしたら、どうじゃ、“せいたかぎつね”は姿を隠し出なくなったんじゃ。
ところが、しばらく経ったある日、大雨で観音様が流されて行ったそうじゃ。作り直すとまた流され…。
その度に、“せいたかぎつね”は夜になると現れて、村人たちに悪さを続けたんじゃ。
困った村では、ある日、若い衆が集まり観音様が流されないようにと、山に祠を建てたんじゃ。その中に、観音様を入れていつまでも祀ったんじゃ。
あれ以来、ことごとく悪さをしていた“せいたかぎつね”は二度と姿を見せなくなったそうじゃ。
村の若い衆が建てた祠の、その観音様を、今では滝の観音様と呼ぶようになったんじゃと。
大田村(現世羅町)に伝わる、むかしむかしの話じゃ。
ある年、日照りが続き田にはひび割れがいき、たいそう水不足になった。村人たちは「あぁ、このままでは飢え死にだぁ。」「雨が降ってはくれんかのぉ。」来る日も、来る日も日は照り続き、困り果てたある夜、村人たちは“わりひめ神社”に集まって、知恵の限りを出し合い話し合った。そのうち、ある村人が「そうじゃ、みなの衆。このあたりで一番高い“新山“に池を作ってみるというのはどうじゃ!」。「うむ…」「池か…」「新山に池をのぉ。」それはよかろうということになり、翌日“新山”に登って池づくりの計画を立てた。そして、みんなで来る日も来る日も汗水たらして池づくりを始めた。どれくらいの年月を費やしたか、やっとのこと、池は完成し村人たちは手を取り合って喜んだ。「これで、もう水不足になることもあるまい。」
それからしばらくして大雨の日が何日も続いたある日のこと「ドドーン」という大きな音とともに、池の堤防がくずれた。「あっ!」という間の出来事だった。
「うわぁー!洪水だ!」「助けてくれー!」洪水だけはなんとかおさまったが、壊れた堤防を修復して何としても池を完成させるという村人たちの必死の願いで、何度も何度も池を作りかえた。しかし、その度に堤防が崩れたのである。「これでは、この大田村を豊にすることは無理だ。」村人たちの話し合いは夜遅くまで続いた。
「人柱はどうかのぉ?人柱を建てて水神様のお怒りを鎮めるのじゃ。」「なに!人柱じゃと!」村人たちは一瞬ハッとして、しばらく黙り込んでしまった。
とうとう人柱を立てることになった。村人たちは毎日、毎日、人柱を誰にするか思い倦ねた。水神様の怒りを鎮めるのだから、若くて美しい娘でなくてはと、何日も迷ったあげく、“おしゃく”という娘に決まった。“おしゃく”は村のためだと、泣く泣くが役人達に池の中に埋められた。村人たちは“おしゃく”に悪いことをした。可愛そうで、みな胸を締めつけられるような思いであった。
後に、村人たちはこの池を“しゃくわ池”と呼ぶようになった。
そして“しゃくわ池”の堤防は壊れることは無くなったそうだ。
(おわり)
明治時代のことだ。東神崎に、“はだの”という金持ちの庄屋が住んでいた。その家はすごく立派で、石垣も作ってあった。庄屋はろくに働きもせず、朝から晩まで金を握りしめて「この金で何を買おう。誰にも分けてはやらんぞ。」などと、金のことばかり話ながら暮らしていた。
百姓たちは、贅沢な暮らしをしている庄屋を恨んだ。ある日堪忍袋を切らした百姓たちは、一揆を起こした。「それ、行け~っ!」「おのれ、庄屋め!」「もっと働け~っ!」すごい勢いで庄屋の家へおしよせた。そして百姓たちは、とうとう家に火をつけた。たちまちの内に火はどんどん燃え上がり、あっという間に庄屋の家を全部火がのみ込んでしまった。百姓たちは、そのすさまじさに、驚くばかりであった。神様の怒りもまた、この一揆に加勢し、成功させてくれているかのようであった。村人たちの怒りから逃れようとした庄屋は、あわてふためいて家を出て行った。自分の欲のために百姓が怒りを持っていたとは知っていたが…。焼け落ちる自分の家を見て、庄屋は深く自分を戒めるのであった。その時、大事にしていた時計を落としてしまった。
(つづき)
「あっ!」吾作どんは草むらの中に、キラリと光る物を見つけた。吾作どんは、恐る恐る近寄ってみると、今まで見たこともない物なので「きれいなもんじゃのぉ…いったい、こりゃあ何じゃろうか?」と独り言をつぶやきながら、しばらく考え込んでしまった。「そうじゃ、みんなを集めよう」吾作どんは村人たちを呼び集めた。
「おぉ~い、みんなちょっと来てみいや~!」村人たちは仕事を止めてすぐに集まって来た。「こりゃあなんじゃ?」「キラキラとよう光るもんじゃのぉ」「おいおい音もしょうるど!」みんなは、怖がってさわろうとはしなかったが、けいきのいい吾作どんはびくびくしながらも手にとって見た。「こんな立派なもんを持っとる言うたら庄屋さんしかおらんじゃろう」吾作どんは、村人たちと庄屋さんの家に向かった。
庄屋さんは喜んだ。「おぉ!わしの時計じゃ。わしの大事にしょった時計じゃ。よおみつけてくれたのぉ。」「村の衆、わしは今までみんなのことを考えておらんかったと思う。どうか、許してくれんか。わしは、これからはみんなと一緒に働こうと思う。」庄屋さんの熱心さに、村人たちもいつしか庄屋さんの良さがわかって来た。
それからというもの、この村は末永く豊に作物が実るということである。
昔、むかし、今の甲山での話、村で一番の欲の深いお爺さんがおったそうな。洪水で流れた橋を修理するのに、村の人たちがお金を出しあうことになっても、「わしゃあ、あの橋は渡らんけぇ、銭など出せん。」お爺さんは、金のこととなると、誰が頼んでも知らん顔。「あのケチ爺さん、わが物は、舌を出すのも惜しいに違いないわい。」「何か人からもらう時にゃ、ちゃんと手を出すのにのぉ。」村人たちが笑い話の種にするくらいの欲張りじゃった。
お爺さんは、自分の部屋の床下に金をぎょうさん入れた壺を隠し、人が寝静まった夜中になると、チャリン、チャリン…「いつ聞いてもええ音じゃ。ハハハ…。この色艶、こりゃみなわしの物じゃ。誰にもやらんぞぉ。」
ある時、手水に起きたお嫁さんが灯りのついた障子の前にさしかかると、お爺さんは金勘定の真っ最中。「お義父さん、こげな夜中に灯りをつけてどうしちゃったんですかいのぉ。」「わっ!ワワワ、おまえ、その障子開けたらいけんぞ。ムム…虫…いや、蛙が飛び出すけぇのぉ。」「なーんじゃ。蛙ですか。そいでもさっき笑い声がしとったような…」「ああ、その蛙が背中に入ったらしゅうてくすばゆうて」
「そりゃいけません。うちが見たげましょう。」「あっ、開けちゃいけん。わしが自分で捕まえるけぇ。ほれっ、ほれっ、もう捕まえた。」「ええい。夜中に人を騒がして憎い蛙め。床下へ捨てちゃろう。ほれ。」「あれ、お義父さん、何やらチャリンチャリン、音がしますが…」「えっ、ああ…蛙の鳴き声よ。よそから嫁に来たおまは知るまいが、カネガエルいうての、小判のなるような鳴き声たてるんじゃ。さ、もう、ええけぇ早う行って寝んさい。」
(つづく)
翌日、孫の一平がお爺さんに、「爺ちゃん、寺へ行こう。餅まきがあるんじゃと。」「ほうか、そりゃあ行こう。へぇじゃが、わしゃあ体がきちいけぇ一平、お爺ちゃんに餅を持って帰ってくれぇ。」「そりゃあ残念じゃのぉ。餅の中へ、金の入ったんもあるんじゃと。」「そりゃほんまか!行く!行く!」
お金と聞けばもう腰が落ち着かず、行きたいがどうにも留守の間のお金が心配。「そうじゃ。ちょこっと待っとれ!」「どうも気になる…嫁が覗くんじゃあるまいか…何やら胸騒ぎがする。ああ、身が裂かれる思いとはこの事、どうか神様仏様、わしの金を守ってつかぁさい。そうじゃ、お金を蛙にしとってつかぁさい。のう、頼みましたで。」
お爺さんはお嫁さんを呼んで、「ええか、わしがおらん間、決してこの部屋に入っちゃあいけんぞ。昨日の蛙がまたどっかに隠れとるかも知れんけぇのう。」「まあ、蛙が…気味が悪い。うちゃあ決して入りゃぁしません。」お嫁さんの返事に安心したのか、お爺さんはいそいそとお寺の餅まきへ出かけて行った。
決して入るなと言われると、入りたくなるのが人情。まして昨日の今日では。お嫁さんは早速、お爺さんの部屋に入ると床の下を覗いて見た。「ありゃ、ま、こんなにお金を貯め込んで…おかげでうちら、世間を狭うして暮らしとるいうのに…あっ、そうじゃ、ええことを思いついた。」
「蛙さん、しばらくこの壺の中で我慢しとってね。よっこらしょ…こうやってええ按配にもとどおり蓋をしとけば…このくらいいたずらしてもええよねぇ。」
(つづく)
「やれ、今帰ったぞ」寺の餅まきに行ったお爺さんが帰ってきた。「どうでしたか?お寺は。」「見てみい、こぎゃあぎょうさん餅を拾うたでぇ。久しぶりにお寺へ参ったけぇ、くたびれた。どら、部屋で休んでくるとしょうかのぉ。」
「爺ちゃん餅は?」「わしより先に、食うちゃあいけんぞ。ちゃんと数は数えとるけぇな、ええの。」
お爺さんは、我が家に帰った途端、もうお金の事が心配で心配で、すぐに壺を取り出して覗いてみた。
壺を取り出して覗いてみたお爺さんは、びっくり。「ややっ、こりゃどうした事じゃ!」壺の中から蛙がピョコン、ピョコン、飛び出した。「わぁ、わしの大事なお金が蛙にかわってしもうたぁ。そりゃ確かに、神様、仏様に『嫁が覗いたら蛙にしてください』とは言うたが…本物の蛙になっとる。どうしよう、はぁええ、わしが戻ったんじゃ、ええけぇ金に戻れぇ。」「こりゃ、逃げな。わしの金蛙!わしが戻ったんが分からんのかのう…あっ!こりゃ、逃げな言いよろうが。わしが戻ったんじゃけぇ、蛙になっとらんでもええ。のう、のう!」
いくら教えても、頼んでも、蛙はお金に返えることはなかった。欲のまたが裂けた、とはこの事。昔、むか~しの、甲山に伝わるお話だとさ。
(おわり)
今からおおよそ400年前(慶長年間)の戦国時代のこと、下津田村(世羅町下津田)に江葉という「津田小町」と評判の高い美貌の娘が住んでいた。
ある秋の日のこと、「御免、水を一杯所望」と言って、捕らえた猪を片腕に抱えた、一人の若武者が江葉の家を訪れた。
この武士は、大井勝重と言い、この男も聡明にして眉目秀麗なことで評判の若者であった。
猪狩りの途中で喉の渇きを覚え、たまたま江葉の家に立ち寄ったのだった。
二人は相思相愛の仲となり、秋が過ぎ冬が訪れると翌年の正月十日には祝言(結婚)を挙げるに至った。
勝重・江葉は結婚してからも美男美女好一対との評判から人気は衰えず、新婚家庭を垣根越に覗き見する者も現れたほどであった。
そしてその年には松丸という男子が誕生し、江葉は幸せの絶頂にいた。しかし二人の幸せは長くは続かなかった。
ある秋の日、勝重のもとへ領主である津田明神山城の城主金築少輔七郎から妻同伴での紅葉狩りの誘いが来た。
実はこの金築は大の好色家で、城中には多くの美女を集めていた。
目的は才色兼備と評判の高い江葉の姿が見たかったのだ。
案の定、江葉の容姿と武家の妻としての身のこなしは、城中のどの女たちよりも優れていた。
その日以来、江葉のことが頭からはなれなくなった金築は、領主(権力)を笠に着て、勝重に江葉を側女として差し出すよう命じた。
勝重は相手が領主と言えども受け入れるはずがなく、再三固辞したあげく「仏門にあれば手出しはできまい」と江葉を同じ村の吉祥寺に預けた。
それでも金築の誘いは執拗になるばかり、和尚と相談の上、江葉を照善坊という更に遠い寺に移すことにした。
江葉は夫と愛児との別れという不運に涙しながら、深い山道を照善坊へと向かって行ったという。
(つづき)
江葉が照善坊(三次市糸井)へ移ってから一年の歳月が流れたその頃、上方では大阪城をめぐって豊臣・徳川の合戦が始まっていた。
自分と家族を引き離した領主金築少輔七郎へも、広島城主、福島正則公の出陣に際し、随行の命が下ったとの噂が江葉の耳にも入った。
江葉は金築の家臣である夫勝重も出陣すると思い、一目逢いたいと寺の御院家(住職)の白衣をまとい、変装して寺を出かけた。
夜陰に乗じ、寂しくて険しい山道を通り、生家の下津田村の深谷へたどり着いた。
母の口から夫勝重は金築にだまし討ちに遭い、惨殺されたことを聞かされた。
思考する力を失った江葉は、幸せを奪われた事への復讐を強く心に誓い、寺へと帰っていった。
さらに時は過ぎ、天下太平と言われる徳川の世になったある年の梅雨。
晴れ間が全く顔を見せぬ陰々滅々の天候が続いていた。
そんな陰鬱なある晩のこと、床に臥していた江葉は、突然三丈もある長い白絹を頭からかぶり、その白絹が地面に着かぬ速さで雨の中に走りこんで行った。
江葉は上田村(三次市上田)の猿ヶ城の滝へたどり着くと、滝に打たれながら一心に夫勝重の仇、金築の呪詛を祈願し始めた。
そして満願の七夜目の晩、飛び散った水しぶきがキラッ、キラッと光り始めそれが絹のような江葉の肌に張り付き、ウロコとなり、ついには全身におよび、江葉の口は耳まで裂けた大蛇に変化した。
恨みの権化・大蛇となった江葉は雷雨を呼び樹木をなぎ倒し、金築の居城である津田明神山へと迫り、豪雨の中恨みの火炎を吹いた瞬間金築の館は焦土と化した。
見届けた江葉大蛇は激流の中へ消えて行った。
恨みを晴らした江葉は照善坊の御陰家の前に大蛇の姿で現れ、今までのお礼を言い、小松一本を差し出し
「この木の枯れるまでは愛児松丸の成長を見守る」
と言って、また川へと戻っていったという。
(おわり)
浜田屋儀八郎の妻、阿姫は平素から養父母に老養を尽くしていたが、夫が病に臥すと、幼女を連れて看病しながら窮乏する一家を守り支え、年老いた養父母にも孝行を尽くした。
その後、病夫、子の死後も養父母に献身的に孝行を尽くし、家業に励んだ。
そこで、藩主は阿姫の篤行を孝婦節婦の鑑として享保21(1736)年、藩儒寺田臨川に命じて「二考伝」を編集させ、広く藩内にその篤行を讃えた。
またその褒美として米五石を与え、更にその貢祖を子孫まで免ずることにした。
阿姫は、延享3(1746)年、44歳で亡くなり。甲山の極楽寺に葬られた。
その後、寛政年間藩主が頼杏坪を阿姫の墓に代参させた時、杏坪は墓前20mに至ると、裸足になって参拝したという。
良妻賢母の鏡として世羅郡近隣の女性や後の甲山高等女学校の生徒たちから崇敬を受けた。
その昔、湯の出る里として知られた湯舟という里がある。
この湯舟の周りには、越堂、寺屋敷、高杯といった、何やら曰くありげな地名が並び、一説には、この地に大寺があったと云い伝えられている。
しかし、寺の名さえ解らないまま、通称“幻の大寺”と云われ、この付近には様々な伝説が今も語り継がれている。
さて、その昔、この里の百姓達は里長を中心に皆仲良く暮らしていました。
山の奥まった所にありながら、山の水は豊かで、湧水も多く、誰云うことなく、ゆぶねという地名で呼ばれておりました。 しかし、その平和の里に、ある時、田んぼのあちらこちらから湯が噴き出し始めたのです。
田んぼの土は赤茶けた色に変わり、いよいよ作物もできなくなったのです。
困った百姓達は里長を囲んで幾晩も寄り合い、対策を考えましたが、どうすることもできません。
このままこの地を捨てて出て行こうにも、行くあてもなし、皆はほとほと困り果ててしまいました。
そして、誰からともなく、人柱を立てるしか湯を止める方法はない、と言い出しました。
最後の手段とはいえ、人一人の命を犠牲にしなければなりません。
一体それを誰に決めてよいものか、里長は長としての決断を迫られ頭を抱え込んでしまいました。
日夜を分かたず、難問に困り果てている父親の苦悩を見るに見かねた里長の娘おゆきは、堪りかねて
「お父様、私が人柱になります。どうか、私を人柱に立ててください。もし私が人柱になって湯が止まれば、多くの百姓さんが助かるのですから」
と、けなげにも自分から申し出たのでした。
「ゆき、お前が人柱になってくれるんか……」「はい、私で役に立つことができれば喜んで人柱になります」
何という優しい勇気のある娘でしょう。
自分の命を捨ててまで村人を助け、里長の立場にある父親をも救おうとは。
父の心は張り裂けんばかりの思いでした。
「里長さんの娘おゆきさんが人柱になってワシらを救ってくださるそうな!!」
村人たちは驚きと感謝で夜も眠れませんでした。
次の日、おゆきは村人たちに見送られ、湯の吹き出ている田んぼへと向かったのでした。
(つづく)
そこへ、弘法大師が湯舟の大寺を訪ね宇根山から牛に乗ってお出でになり
「私は全国を修行して廻っている者だが、この奥の大寺へ参らねばなりません。が、その前に、こちらの事と次第を詳しく聞かせてくださらんか」
里長さんから娘が人柱になることを聞かされたお大師さんは
「その娘さんの立派な心がけに心を打たれました。私が湯を止めてあげましょう。娘さん、その気持ちを大切にして、これからも皆さんのお役に立ちなさい。そして親孝行して幸せに暮らしなさい。」
と言って、自分の乗って来た牛の首を切らせ、その首を湯の噴き出している田んぼの中にそっと投げ込まれたのです。
驚く村人を後に、お大師さんは何事もなかったかのように静かに大寺へと向かわれました。
不思議なことに、その事があってからは、あれ程あちらこちらから出ていた湯は止まり、また元のように水の豊富な田んぼに戻りました。
ただ1ヶ所、牛の首を投げ入れた所からだけは、コンコンと湯が湧き続けていました。
湯舟の出来事はまたたく間に広がり、百姓を救って下さったお大師さんを讃えて、湯の湧く近くにお堂が祀られました。
そして、その時すでに廃寺となっていた大寺にお参りされた帰り道にお大師さんが座って休まれたといわれる“弘法岩”にも、人形を彫り込んだ石碑も建てられました。(津久志の郷に続く道の端にあります)。
ただ1ヶ所湯が湧く所は何時の頃からか湯冶場として栄えました。
大きな屋敷跡もあり、20数年前まで大きな休憩所や風呂釜、煙突がそのままあり、さながら山峡のいで湯であったと思われます。
薬になる水が出る、といって湯冶客で賑わっていた頃、この山の持ち主である和木新作さんという人が、四国の石鎚さんから御神体を持ち帰り、以後は弘法大師、子安観音、一幡薬師などを祀り、多くの信者と共に湯舟を守っておられたそうである。
今では、御神体やお地蔵さんやお大師さんを一堂に集められ、小さな小屋の中に安置されていて、毎月21日には決まって参拝する信者もいるということである。
(おわり)
備後地域の梵鐘づくりの職業集団として、『丹下一族』が知られている。
河内国(大阪府)の鋳物師天命家の出と伝えられ、近江国の丹下村に住んで草部氏を称していた。
詳細は不明だが約600年前の鎌倉時代末から南北朝時代に備後国御調郡宇津戸村(現世羅町宇津戸)に移住して、鋳物業の傍ら、海裏庄の領家方役人として代々、中世から政治にも関与し、また時の権力者から守られながら、備後地域において活躍し、多くの作品を鋳造してきた。
丹下氏一族による現存最古のものは、今高野山龍華寺の梵鐘で、寛文7(1667)年8月「大工橘朝臣丹下甚右衛門家次」の名が記されている。
太平洋戦時下、今高野山龍華寺の梵鐘も供出されかかったことがある。
当時、戦時下においては金属の不足を補うため、家庭の金属製品やお寺の鐘楼が集められ、軍事物資に姿を変えていた。
供出の基準として対象になったのはおおよそ作鐘から300年未満のものであったため、270~280年前後の龍華寺の梵鐘は供出対象だったのである。
供出の当日、立ち会ったある住人が
「ここに刻んである作鐘年号の『寛文』といえば、300年以上経っている筈だ。とにかく古いものだ」
と当時の役場担当者に申し出た。嘘も方便とはまさにこのことで、もとの鐘楼に戻された。
地元住民の機転で無事に残された鐘は、今年で作鐘から340年目を迎える。
山中福田の水田地帯に土地の人々から「かたちぐろ」と呼ばれている小高い丘がある。
ここに開いたキノコのような形をした県指定の天然記念物“ヤブツバキ”の大木がある。
この大木は、「世羅長寿のツバキ」と名付けられ、樹齢は1480年という老樹である。
周囲2.05メートル、樹高約7メートルは県内最大の貫録十分だ。
根方には室町時代の五輪塔がいくつもあり、土地の人は
「昔、戦いに敗れた武士たちの墓」
と伝え聞いている。
昔から墓地の聖木として大切に保護されてきたのである。
また小国には、根方にしめ縄が巻かれた樹高25メートル、樹勢もよい県指定天然記念物の“ウラジロガニ”の巨木もある。
東上原(三川村東上原)の広い郷に突き出した岡がありました。
この岡は緑の雑木(落葉樹林)がいっぱい生い茂った森で、村人たちは「烏の森」と言っている所です。
この森にはどう言うわけか何百何千とも数えきれない程の烏が夢をつなぐねぐらにしておったそうです。
だから夕方ともなると「カァ・カァ~カァ」と鳴きながら空いっぱいに飛び交うて、やがてこの森に帰って眠るんです。
この烏たちは村の農作物を食い荒らすことは一度もなかったと言うことです。
だから、村人も森の烏に対してはいたずらをする者はおりませんでした。
この烏の森の端に、勘左衛門長者の住まいがありました。
大変な物持ちでこの村(東上原)の田畑のほとんどがこの長者の持ち物だったそうです。
家には蔵が五つもあり、“烏の森の長者”と呼ぶようになっておりました。
じゃが、一つ困ったことにこの長者さんはわがままな上に短気な人で、情容赦ないとても無鉄砲者ですから、貧しい村人を馬鹿にして、牛や馬のように追い使うばかりで、疲れていても少しも優しい声や、哀れみを掛けることはありませんでした。それで村ではだんだん評判が悪くなって、陰では“烏の勘左衛門”と呼び捨てにするようになっておりました。
ある秋のこと、いつもの年と同じように、田んぼの稲が良く稔りました。長者は大喜びでした。
田仕事が夕方になっても終わりそうにありません。
長者は「烏が帰ってくるから日が暮れたんじゃろー!」と「稲を刈るまで森まで帰ってくるな!」と叫びながら杖を高う振り上げて、烏を追いかけ回ったそうです。
烏は勘左衛門をからかうように森の巣に向けて帰って来ます。
勘左衛門は腹を立てて、森の巣に火をつけました。
(つづき)
烏の森に火をつけた勘左衛門は
「わしがたいた大きな火じゃ。あの明かりで早う稲刈りを済ましてしまえー!」
と言って、村人たちに稲刈りを終わらせるようにしました。
次の日の夕方、烏が稲ハデに降りて来て稲穂をむしり始めました。
これに怒ったわがままな長者は、今度は鳥の森の焼け跡の開墾を命じました。
去年まで湧き出ていた泉の水が枯れて、田に入れる水が無くなり、折角植え付けた稲も枯れてしまいました。
村人達は、「烏の森を焼いた罰だろうよ」と囁き合いました。
枯れ残った作物にも虫が付いて食い荒らされます。
あれ程の物持ちだった勘左衛門長者もいよいよ貧乏になってしもうて、気が変になって死んでしまいました。
しかし、困ったことに勘左衛門が死んだ後も、その罪は消えません。
湧き水はあのまま止まってしまって、東上原辺りでは水不足の為に田植えが遅くなると言うことが近辺では一寸有名になりました。
少し日照りが続くと田に水が無いので、どの田も白く干上がって稲は枯れてしまいます。
困った村人達は、農業を守ってくださる神様として名高い“黄幡様”のお使いが烏だと言う事だから黄幡様をお祀りして、罰を解いてもらう事にしました。
祠は烏の森の一番先の焼け残った一本杉の根本に建て、村人が集まってお祀りをしました。
それからというもの、烏もいたずらをしなくなりました。
祠の横に生き残った一本杉も昭和45年8月20日、10号台風で倒れてしもうたんじゃが、黄幡様の祠だけは、その場所に残って村人の願いを今に伝えております。
(おわり)
世羅町の上津田の稲荷神社では、毎年10月9日夜から翌朝にかけて神殿入り(こうどなり)が行われる。
神殿入りとは、氏子が御神灯(ごしんとう)を奉納し、その年の豊作に感謝し家運の隆盛を祈る神事で、当地では400年余の伝統があり昭和48年、県無形民俗文化財に指定された。
当日の午後9時、打上花火を合図に上津田の7地区から御神灯(ごしんとう)の隊列が神社へ向け出発する。
氏子総代の弓張りぢょうちんを先頭に、氏子が捧げた大灯明の行列。
「ソーリャ。ソーリャ。」太鼓、鉦(かね)、笛の囃子に合わせて勇ましい掛け声が響く。
大灯明は高さ3~5メートル・30キロ近い重さのものもあり、青竹に木枠を付け和紙で張った四角な灯籠を沢山飾り付ける。七個の灯籠を三角形に配置した「七灯(しちとう)」、舟形で仏像の背後にも見える「舟後光(ふなごこう)」、「日南(ひな)」、「大池(おおいけ)」などの地区名を描いた「奉字(ほうじ)」がある。
また、これとは別に、各地区ごとに7~8メートルもある櫓を組み、100個近い灯籠で飾った「大鳥居」「五重塔」も建てられる。
闇夜に鮮やかに浮かび上がった鳥居や五重塔の脇を無数の灯籠が揺れながら移動して行く光景は幻想的で、火の祭典の圧巻となっている。
神社下に御神灯が集まって来ると、祭りは最高潮。
参拝者が見守る中、30本余りの御神灯が一気に石段を駆け上がり「神殿入り」を果たすのである。
世羅町津口にある鳥居は、町内で確認されている鳥居の中で、現在最も古いものです。
鳥居の左右の柱に彫られた文字から、文永10年(1273年)に建立され、延享4年(1747年)に一度崩れ、明治30年(1897年)に再建されたことがわかっています。
笠木と呼ばれる鳥居の一番上の石は、後から造られたもので、もともとは丸く加工された笠木だったのではないかと考えられます。
2本の柱は、転びと呼ばれる傾きがほとんどなく、直立して建てられています。
これは古式の鳥居に見られる特徴です。
また、貫と呼ばれる柱と柱を結ぶ石材の両端は、柱から突き抜けていません。
鳥居は低い丘陵上にあり、周辺の道はわずかに残る山道のみです。
この古鳥居のある場所の西北300mに野原八幡宮がありますが、この古鳥居にも「野原八幡宮」の文字が刻まれています。
このことから、鳥居が造られた当時には、この古鳥居のある場所が参道として人々に利用されていたことがうかがえます。
周辺には往来(官道)があったものと考えられ、古道を探る手がかりのひとつともいえる鳥居です。
むかし昔、大きなお寺があり“寺町”という地名がつきました。
ところが、いつの世か小さなお堂になっていました。
人々は集まって、ここにお寺を造ろうと話し合いました。
どこから木を切り出して、誰がいつ、どんな仕事をするか長老を中心に細かく決めていきました。
その次の日、木を切る者は近くの山へ行って大きな木を切り倒しました。
山の途中にお寺を造ります。
丁寧に土をなるめて、広い土地を造ります。
やっとお寺が完成しました。
「やったぁ!」と叫び村の人々も「やったぁ!!」と手をたたいて喜びました。それが康徳寺です。
現在の寺は江戸時代初め、地元の庄屋、松本助兵衛によって再興されたものです。
本堂には釈迦如来座像が安置され、薬師堂には薬師如来が安置されています。
紫陽花と雪舟庭園のある美しいお寺です。